Hanabi

 静かな四畳半の部屋に、アナログ時計が時刻を刻む音だけが響く。
 ちょうど、二十三時五十九分を通り過ぎたところだった。
(……あと一分)
 僕は胸中で呟いて、じわじわと進んでいく秒針をただじっと眺める。
(……あと三十秒)
 二十九、二十八……。
 秒針が刻むリズムに合わせてカウントダウンを始め、長いようで短い時の経過を見守っていく。
(じゅう、きゅう、はち、なな)
 ろく、ご、よん、さん。
 に。
 いち。
 けたたましく鳴り響くアラームに包まれて、口元が緩む。この日をどんなに待ちわびていた事だろう。
(やっとだ)
 やっと訪れた、記念すべき日だ。
 今日、この日。
 二年前から心に決めていた今日のこの日が、僕の命日だ。

 一眠りして目が覚めたのは、ちょうど昼に差し掛かる直前だった。ジリジリと照りつける太陽の下を歩きながら、僕は駅に向かっていた。
 別に飛び込もうというわけじゃあない。死に方については色々と考えてきたつもりだ。
 列車への飛び込み、高所からの飛び降り、服毒、首つり、切腹、樹海……。どれもこれもが遺体が残る。僕の中では些か理想的ではなかった。
 自ら命を断ち切る存在が、生きている人たちに余計な仕事をさせてしまうわけにはいかない。それは、僕が消えるにあたって最低限考えたポリシーだ。
 遺体が人目にさらされず、そして極力人に迷惑をかけずに消失するにはどうすればいいのだろう。そうして導き出した結論は、何とも古典的な入水自殺だった。人気のない、どこか深そうな海に重石 を背負って飛び込む。ただそれだけだ。
 夏休みの昼間という事もあって、ホームには大きな荷物を持った家族連れの姿がいくつか見えた。
 僕が乗るのは海岸線へと続く路線だが、反対側のホームは国際空港へと直結している。小さめのトランクを傍らに置いたまま携帯電話を弄っているサラリーマン。大きなトランクを二つ転がしている 老夫婦。小さなリュックを背負って、両親の傍を駆け回る子供。
 人の少ない、ホームの端に設置されたベンチに腰を下ろしてそれらをぼんやりと眺めながら、僕は電車を待った。
「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
 思わぬ近距離で聞こえてきた声。
 ホームの中ほどへ向けていた視線を正面に戻せば、そこには白いワンピースを着た、可愛らしい少女が立っていた。
 太陽光に当たって薄茶色く透ける髪を両サイドでまとめて、水色のぽんぽんが付いたゴムで止めている。露出した肌は白く、子供特有の張りがあった。
 年の頃はまだ十にも満たないだろう。下手をしたら義務教育もまだなのかもしれない。
「え」
「どこへ行くの?」
 驚いて言葉に詰まった僕に、少女は再び同じ問いを投げてくる。
 どこへ行くのか。
 最終的に行きつくところは天国なのか地獄なのか、はたまたそんな世界などないのか。ふわりとそんなことを考えかけて、首を振った。この子が聞いていることは、僕の最後の目的地ではないだろう。
「海、行こうかなって、思ってるんだけど……」
 当たり障りのない言葉を返しながら、僕は周囲を見回した。
 この子の他に、僕の近くに人影は見当たらない。保護者はどこに居るのだろうか。それともこの子は一人なのか? 何故?
 少女は屈託のない笑顔を浮かべたまま、僕の膝に手を置いて、言った。
「ねえ、わたしも一緒に行っていい?」
 小さく首を傾げて言ったその子の申し出を、僕は何故か断ることができなかった。

 グリーン車両の乗車券を買って、僕は少女の元へと戻った。戻る途中にあったキオスクでスナック菓子とジュースも購入し、空のリュックへと放り込む。
 死にに行くのに荷物など必要ない。大きめのリュックは、現地で砂や石を詰めて錘にするためだった。
 少女は先ほどまで僕が座っていた場所に腰を下ろして、足をぶらつかせながら僕の戻りを待っていた。
 僕は隣に腰かけて、ちらりと少女の様子を伺う。別段何の変哲もない、本当にただの女の子だ。
 次の電車まであと五分。
 人気のないホームの端っこで、僕らは二人、一言の会話を交わすこともなく電車を待った。

 座席に並んで座ると、僕は荷物の中からジュースとお菓子を取り出す。
 この数年、僕は菓子を食べた覚えがない。何がおいしいのかも、そして彼女が何が好きなのかもわからないまま適当に選んだそれらを備え付けの小さなテーブルに並べ、それから少女に言った。
「どれか好きなの食べなよ」
 少女は一度僕を見て、それからテーブルに載せられた菓子達を見ると、小さく頷いてから手を伸ばす。
 少女が手に取ったのは、小さなチョコレート菓子だった。
 飲み物は三本。ペットボトルのお茶と水、それから甘い炭酸飲料。
 こちらも少女に先に選ばせて、僕は残った二本から水を選んでキャップを開けた。
 三分の一ほど一気に喉へと流し込んで、菓子を頬張りながら嬉しそうに微笑んでいる少女を見遣る。
 僕は一体何をやっているんだろう。
 グリーン車両の乗車券も、大量の菓子もジュースも、僕の予定にはなかったものだ。
 財布は持ってはいたものの、大した額を入れていたわけではない。
 いきなり軽くなってしまった財布の中身を思い出して、僕はこっそりため息を吐いた。
(銀行にまだあったかな)
 せめて少女に、帰りの電車賃くらいは渡してやりたいと思った。
 この子には僕と違って、帰る場所があるはずだ。
 それがどこなのかはわからないが、少なくとも乗車した駅までの切符が買えれば問題はないだろう。
 僕が──無職の成人男性が、小さな女の子を警察に届けるのは余り得策ではないように思える。今の世論は、幼い子供と女性に対してしか優しくない。
 せめてもの救いは彼女が僕をお兄ちゃんと呼び、何故だかわからないが懐いてくれていることだった。
 菓子とジュースを黙々と頬張る少女越しに、僕は窓の外へと目を向けた。
 都心から離れて低くなっていく建物。少しずつ、少しずつ、僕は僕の人生の目的地へと向かっているのを感じた。
 建物の隙間から見える地平線が、まるで僕を呼んでいるようだと、僕は思った。

 心地好い潮風が吹き抜ける砂浜を、僕らは並んで歩いていた。遊泳地区ではないのか、海の家も海水浴客も見当たらない。
 寄せては返す、波の音。なんて使い古されたフレーズを頭に思い浮かべながら、僕はぴったりと隣にくっついて歩いている少女を見た。
「ねえ、どうして僕に声をかけたの?」
 駅で思わず頷いてしまってから、ずっと気になっていた事だった。喧騒から離れて一人でじっと座っている男に、気軽に声をかけようなんて人間は余り居はしないだろう。
 現に、この子が現れる前にこちらに向かっていたカップルは僕を見てそそくさと踵を返していた。──最もそれは、ただ二人きりになれる場所を探していたに過ぎないのかもしれないが。
「お父さんとお母さんは?」
こちらを見上げたまま答えない少女に、僕は重ねて問いかける。
「知らない」
「……は?」
「知らないの。パパもママも、どこにいるのかわからないの」
「そ、そうなんだ」
「お兄ちゃんと一緒だよ」
 明るくなんでもないことのように言って、少女は砂浜を駆け出した。
「あっ、ちょっと!」
 慌てて伸ばした手は空を切り、僕はバランスを崩して柔らかい砂に膝をついた。
「ねえ、だから、今日は一緒に遊ぼう?」
 何時の間に戻ってきたのか、少女は僕を見下ろしながらそう言った。

 僕には両親がいなかった。
 もちろん初めからいなかったわけではない。いなくなったのだ。ある日、忽然と。
 中学を卒業したその日の事を僕は忘れたことはない。
 当時住んでいたのは海岸沿いの、それなりに広い一戸建てだった。
 犬こそ飼っては居なかったが、白い壁の庭付き一戸建て。それなりに裕福な、恵まれた家庭だっただろう。
 けれど僕は、それを別段幸福だと考えたことはなかった。生まれたときから当たり前のように存在していたものに対して、恵まれているのだと感じる人間は少ないはずだ。
 両親を失って、僕はようやくそれを自覚した。自分がどれだけ恵まれていたのかを、思い知った。
 高校への進学が決まっていた僕は、バイトをしながら広い家で一人きりの生活を送ることになった。
 家のローンや水道光熱費がどうなっていたのかは知らないが、請求の類が一度もなかったことを考えると両親の口座から引き落とされていたのだろう。
 友人たちは僕の環境を知って気を遣うようになった。僕はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。そうして、気づけば彼らとは疎遠になっていた。
 そうして、僕は世界で一人きりになった。
 高校生活の三年間は学業とバイトに費やした。いつ両親が戻ってきてもいいように、家の中は常にきれにしていようと心がけていた。
 その生活を壊されたのは、高校を卒業したその日のことだった。
 僕にとって卒業式は、両親が消え去ったあの忌まわしい日でしかなかった。
 きっと、これからもそれは変わらないと思っていた。
 けれど二人は帰ってきたのだ。
 僕が高校を卒業したその日の夜に。
 けれど二人は、もう僕の両親ではなくなっていた。
 彼らは、僕という存在を、きれいに忘れ去ってしまったのだ。

 僕には友達が居なかった。
 僕には両親しか居なかった。
 二人がいつか帰ってくるという、そんな淡い希望だけが、僕の生き甲斐だった。
 けれどその両親は、僕のことを忘れてしまった。
 二人にとって僕は見ず知らずの他人でしかなく、二人が生きてく上で僕は必要のないものになった。
 家には母子手帳もあったし、戸籍には僕の名前がきちんと記載されてはいた。幼いころのアルバムもあるにはあった。けれどそのどれもが、両親の記憶にはかすりもしなかったのだ。
 幸いなことに僕には貯金があり、卒業後は暫くゆっくり過ごそうと思っていたために、進路も決めてはいなかった。
 つまり僕には多少の現金と、無限の時間があった。言い換えれば、過去の僕が当時の僕へ残していたものは、その二つしかなかった。
 僕は逃げるように白い家を出て、都市部に小さな部屋を借りた。
 それが僕の最後の城だ。
 それから二年、生きる気力が湧くことはなかった。
 僕は生きてく意味を見出すことができなかった。
 だから僕は、消えてしまおうと思ったのだ。

──八月十二日、二十歳になる今日この日に。

 夕日が、空と海を赤く染め上げていた。
 僕と少女は砂浜に腰を下ろして、散策中に見かけたコンビニで買ったアイスを食べていた。
 人の居ない夏の海。
 波と、時折吹く風の音が僕の鼓膜を震わせる。
 少女はアイスを食べ終えると、僕の腕に下がっていた空のコンビニ袋にごみを詰め、立ち上がった。
 白い花のついたピンク色のサンダルを脱いで、波打ち際へと走って行く。
「あんまり行くと危ないよ」
 遊泳区域でないのであれば、何があるのかはわからない。
 海底の砂の状態が悪いのかもしれないし、潮の流れが激しいのかもしれない。季節的に、色鮮やかなクラゲが密集している可能性もある。
 僕は残りのアイスを一口で詰め込んで立ち上がると、少女と同じようにごみをまとめ、少女の後を追った。
「海、きれいだね」
「うん、そうだね」
 少女は水に足をつける前に振り返り、僕に言った。
 僕はその隣で立ち止まり、沈んでいく太陽を眺めた。
 光を反射して輝く水面は確かに美しかった。
 少しずつ、少しずつ暗く沈んでいくさまは、まるで昔の僕の心のようだと思った。
「あのね、お兄ちゃん」
「うん?」
「行きたいところがあるの」
 僕の服の裾を掴んで、少女は言った。
 彼女が希望らしい希望を述べるのは、これが初めてだった。ある程度自由気ままに動いてはいても、僕の傍を離れることもなければ、僕をどこかへ連れて行こうとする気配もなかった。
 連れまわされているのか連れまわしているのかさっぱりわかりはしないが、概ね僕がやりたかったことを阻害されるようなことはなかった。
 もちろん、最後の目的を果たすことはできていないのだけれど、それはもう少し後でもいい。
「どこ?」
「あっち」
 言いながら、少女は僕の手を引いて海岸の出口へと向かい始める。
 手を取られた瞬間、僕は一瞬海にでも引きずり込まれるのかと期待したが、それはどうやら間違いだったようだ。
 そもそもそんな心中のような真似をしなければならない理由が、彼女にはないだろう。
 砂をかぶった階段を上り、潮風で錆びついたガードレールの設置された細い歩道を歩く。車道を挟んだ先の道にはサーフボードの並んだ店や、浮き具の吊られた雑貨屋、テラスが設置された飲食店が点々と並んでいる。人の入りはまちまちだったが、楽しそうに談笑しているその姿が、何となく胸に突き刺さった。
 僕はどこで間違えてしまったのだろう。諦めずに、あの家に縋り付いているべきだったのだろうか。
 今となってはどうしようもないことではあるが、少女と行動を共にするにつれ、後悔の念がじわじわと押し寄せてくる。それと同時に、自分の決意がほんの少しずつグラついてきていることも自覚していた。
 二人がどうしてそうなってしまったのかは僕には量りようがなかったが、離れている間に何があったのかを調べることくらいはできたのかもしれない。
 少女は僕の手を握ったまま、まっすぐ前を見て歩いて居た。
 僕もそうしてまっすぐに歩いて居れば、道路の向こうにいる彼らのように、笑って過ごすことが出来たのだろうか。
 波の音を聴きながら、僕はぼんやりとそんな事を考えて居た。

トンネルを抜けて、海の見える山沿いを歩く。どのくらい歩いたのかはわからないが、辺りはすっかり暗くなっていた。
「まだ着かないの?」
「もうちょっと」
 ほんの少し足が痛い。それに小腹も減ってきた。考えてみれば、今日の食事は電車の中でつまんだスナック菓子と、海辺で食べたアイスだけだ。
「お腹空かない?」
 ぽつりとそう呟けば、少女は足を止めて僕を見た。
 きょとんとした表情で首を傾げる姿は酷く愛らしい。
「あー……大丈夫、なのかな」
 じっとこちらを見つめてくる視線に何となく居心地が悪くなって、僕はそっと視線を逸らしてそう言った。
「お兄ちゃんおなかすいたの?」
「うん、ちょっとだけ」
「そっか」
 少女は何か考えるように顎に手を当てる。それから小さく頷いて、周囲を見回した。
「じゃあ、あっち」
 そう言って彼女が指差したのは、僕らが今下っている坂の先だった。よく見れば、コンビニのような看板が頭をのぞかせている。
「君は何かいらないの?」
「うん、だいじょうぶ」
 踵を返して走り出した少女を追いかけながら、僕は坂を下りていく。徐々に見えていくその店は、都心ではあまり見かけない小規模なチェーン店のものだった。
「あっちで待ってる」
 自動ドアですらない店の戸に僕が手をかけると、少女は駐車場の端の方へと向かってしまった。あの子も僕と同様に、大したものを食べてはいないはずなのだが、本当に大丈夫なのだろうか。
 少しばかり余分に買って行こうと店へ入り、僕は籠を手にして陳列棚を眺めていく。
 水を二本、おにぎりを二つ。それから電車内で少女が手にしたチョコレート菓子を二つ。他にも細かいものを適当に籠に放り込み、レジに並ぶ直前で財布の中身が心もとなくなっていたことに気が付いた。
 幸い、このコンビニにもATMはあるようだった。
 僕は籠を持ったまま僅かばかりのお金を下ろし、会計を済ませると店を出た。
 こちらに背を向けて待っていた少女の元へと小走りで近寄って、声をかける寸前で手を止める。少女は視線の先にある真っ暗な海を、何の感情も篭らない表情でただじっと眺めていた。
「た、ただいま」
 その、何とも言い難い空気に若干気圧されながらも声をかければ、少女は何事もなかったように振り返り、これまで幾度も見せてくれた無邪気な笑みを浮かべて、おかえりなさいと言った。
「チョコ、食べる?」
 僕は買ってきた袋の中からチョコレート菓子を一つ取り出して、少女へと差し出す。
 少女は無言でそれを受け取って、敷石に腰かけて封を開けた。
 僕も並んでそこに座り、水とおにぎりの封を切る。
 コンビニの中でちらりと見えた時計は、何時を示していただろうか。確か二十一時をいくらか過ぎてた頃だったはずだ。
 そろそろ準備をしなければと思いつつ、僕は少女に目を向けた。もそもそとお菓子を頬張る姿は、出会った時と変わらない。
 先ほど海を眺めていた時のあの気迫は、一体なんだったのだろう。
「ねえ、どこに行きたいの?」
 米を水で流し込んで、僕は少女に問いかけた。
「海」
「海なら、さっきまで居たじゃないか」
「そっちじゃないの。もっと、深い海」
 深い海? 沖の方を指しているのであれば、人の足でいけるような場所ではない。
「迷ってないから大丈夫だよ」
 僕の心を読んだかのように少女は言って、再びチョコレートにかじりつく。
「……そっか」
 僕はそこで会話をやめた。深い海に行くのであれば、それはそれで好都合だろう。
 浅瀬に飛び込んだところで死ねはしないし、浮かびあがる可能性だって高い。
 崖があるのが一番だとは思ったが、この辺りに飛び降りられるような所はなかったように記憶している。
 ──もっとも、そんな場所があったところで封鎖されているに決まっているのだが。
 そこに至って僕はようやく、自分が細かい場所を考えていなかったことに気が付いた。
 これはまずい。
 浮き上がらないようにする工夫を考えたところで、そもそも沈めるような場所がなければどうしようもないではないか。
 慌てて立ち上がり、僕は海岸線に目を向ける。
 真っ暗な海はゆらゆらと揺れて、岩場で小さなしぶきをあげていた。音は聞こえない──そこまで、近い距離ではなかった。
 既に満潮を迎えているのだろう。昼間歩いていた場所は海水に覆われていた。
「大丈夫だよ」
 服を引かれて振り返れば、菓子を食べ終わったらしい少女が僕の顔をじっと見ながら、そう言った。
「大丈夫」
 僕と目が合うともう一度言って、少女はゆっくりと立ち上がる。
「……え?」
 彼女の言葉の意味が、僕は今度こそ良く理解できなかった。
 何が大丈夫なのだろうか。この子は、僕の目的を知っているのだろうか。話した覚えはない。気づかれる理由もない。そもそも今朝出会ったばかりの少女に、僕は何故こんなにも懐かれているのか。 そして僕はどうして、彼女を連れだって歩いているのだろう。
 一度あふれた疑問は収まることなく広がっていく。けれど僕は、不思議と彼女の事が嫌ではなかった。
 彼女の残した大丈夫という言葉が、僕の胸に突き刺さっていた。
 ──大丈夫。
 そう、きっと大丈夫だ。
 何が大丈夫なのかはわかりはしないけれど。

 コンビニを出てから僕らは山道を下り、再び海辺を歩いていた。
 辺りは真っ暗で、具体的な場所など僕には把握できなかったが、昼間居たのとは違う海岸だろう。
 潮の香りが強くなるにつれ、少女の足は速くなった。まるでどこかへ誘うように──確かに誘われてはいるのだが、それにしてもそれまでとはずいぶんと違う雰囲気だった。
 徐々に街灯の数は減り、道は薄暗くなっていく。それにも拘わらず少女は迷うことなく、少女はどんどん進んでいく。
「お兄ちゃん早く!」
 少女が足を止め、僕を呼んだ。おそらく目的地に着いたのだろう。僕は足を速めて、少女の横へと並ぶ。
 そこは、薄汚れたフェンスに囲まれた、防波堤へと続く路地だった。鍵の開いた扉をくぐって中に入ると、少女は再び駆け出した。
「こっち!」
 中ほどまで行って、少女は僕に手を振った。
 色とりどりの落書きがされた防波堤に目を奪われつつ、僕は少女の元へと歩いていく。
 周囲にはやはり人気はなく、少ない街灯が足元を僅かに照らしていた。
「ここに何かあるの?」
 問えば、少女は大きく頷いて、大きな月の見える空を指差して、言った。
「これからね、花火が上がるの」
「花火?」
「そう、花火。おっきくてきれいなの」
「……へえ」
 少女の言葉に曖昧な返事を返し、僕は携帯電話の時計へと視線を落とした。
 二十三時五十六分。
 残された時間は少ない。
 どうしたものだろうか。このままでは目的を達成することができないではないか。
 少女は防波堤を登って振り返ると、楽しそうに微笑んだまま僕を見下ろした。
「危ないよ」
 風は強い。街灯も少ない。誤って海に落ちでもしたらどうするのだと。そんな思いを詰込んで呼びかける。
「知ってるよ」
 か細い少女の声が、人気のない道に響き渡った。
 そのとき、少女の背後で一際大きい花火が打ちあがった。逆光で、少女の表情がわからない。
「──知ってるよ。だってわたし、ここから落ちて死んだんだもの」
 花火が消えて、薄暗さに目が慣れた時、少女の体は水浸しになっていた。
 スカートの裾からぽたぽたと落ちてく水滴が、地面に落ちる前に霞んで消えてく。
 白く細い足。先ほどまで履いていたはずのかわいらしいサンダルは、片方だけが失われていた。
「……君は」
 僕は言葉を失って、防波堤の上に立つ少女を見上げていた。

 どうして気が付かなかったのだろう。駅のホームで出会ってから、誰も僕らを見もしなかったことに。
 どうして気が付かなかったのだろう。海辺にたどり着いてから、誰ともすれ違うことがなかったことに。
 どうして気が付かなかったのだろう。少女が、人の居る場所へと足を踏み入れようとしなかったことに。
 そして何よりも、こんな時間に打ちあがる花火などありはしないということに。

 気が付けば僕は、いつもの四畳半の部屋で眠りに落ちていた。カーテンの隙間から見える景色は真っ暗で、時計が示す時刻が深夜であることを証明している。
 携帯の電源は充電切れで落ちていて、テレビを付けても何の番組も放送されてはいなかった。
 今日は一体何日なのだろう。
 暗がりの中でぼんやりと天井を見上げ、記憶を掘り起こす。
 僕は死に場所を求めて海へとに出かけたはずだった。
 そして小さな女の子に出会い、何故か行動を共にした。
 その少女は既に亡くなっていて、僕は彼女の死んだ場所へと案内されて、そこで、記憶は途切れている。
 あの防波堤で、あの子は足を滑らせて溺れてしまったのだろうか。それとも誰かに突き落とされてしまったのだろうか。彼女の遺体は見つかっているのだろうか。彼女の両親は。

 花火が見たかったのだと彼女は言った。
 そこは特等席だったのだと、彼女は言った。
 来年もまた、彼女はあの場所へ花火を見に来るのだろう。
 そして僕も、またあの場所に行くのだろう。
 なんとなく、そんな気がした。


初出:いつだったか忘れたけど3人合同誌(在庫なし)
加筆修正:2016/10